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2006-09-25

_ [note] 斬られて候、目がチカチカ。

いまさらながら、ひと月前にこっそり書いたものを置き土産。

発端はknot/20060807#c

「金になる研究と、金にならない研究がある」
これはたぶん事実。
「レベルの低い研究はすべからく金にならない」
これは事実誤認。低レベルでも様々な手段で資金獲得した研究はいろいろある。公費を投じた研究でさえ、阪大人文COEのようにD評価のものも数多い。このように、結果としての評価(これが適切か否かは別な問題として)が低くとも公費が投じられたきた実績がある。レベルの低い研究のなかには金になるものもあるということ。反例は十分にある。もちろん金になる研究のレベルが高いとも限らない。ついでにブルデューと富健のおいたちを併読せよ。
「研究としてのレベルが高くても社会的な需要がなければ、金にはならない」
風が吹けば桶屋が儲かる。マスコミというのは思考回路を短絡させる作用を発揮するのでもっと単純に、毒ガス兵器の濫用危険性を吹聴すればガスマスクが売れる。中東で戦争を起こせば石油価格は上昇する。社会的「需要」というのは「喚起」もできれば「捏造」もされるものだ。既に目立つ需要にのみ迎合するのは社会変動を無視した戦略であり、企業ですら常に新商品を開発するようにそこまで愚かではない。需要喚起の努力(啓蒙?)を怠れば、市場の縮小最生産に陥るのが関の山。
「大澤○○や宮台○○クラスまで突き抜けて、原稿料を稼ぐか」
宮台でも単行本初版1万部程度らしい。1冊1000円で印税率10%として高々100万。雑誌原稿料もせいぜい原稿用紙1枚1万円程度であろう。50枚(2万字)書いても50万。年に何冊も出したとしても本自体それほど売れるものではあるまい。万が一累積で数億の所得があったと仮定しても、その収入の安定した基礎を継続して支えているものは、やはり給与とその社会的地位だ。ところで、そもそもかれらは研究をしているのだろうか。そして、それほどの稼ぎは生活のためにもしくは研究のために必要だろうか。「身銭をきって」というknotの論点とは確実にずれてるんではないか。
「大学で需要のあるテーマをやるか」
あれ?「社会的需要」ではなかったのか。それは大学での需要とは異なるのではないか。大学での需要とは誰の需要なのか。サービス消費者たる学生か、労働予備軍たる学生か、研究生産者たる学生か、あるいは大学経営者か、大学教員か。あるいは、「社会」の実例として大学しか想像できないのだろうか。
「それがいやなら、あとはアマチュア研究者として、ヒマなときに好きな本でも読むしかない」
一般論として、「ヒマなときに好きな本を読む」のは良いことのような気がする。プロフェッショナル研究者は「ヒマなときに好きな本を読む」ことができない人のことらしい。どうも「アマチュア研究者」になると「ヒマなときに好きな本を読む」ことができると思われているらしい。しかも、それがうらやましいようだ。ただし現実的には、どんな「アマチュア研究者」でも「アマチュア」と位置づけられる限り他の仕事で食うのだろう。とすればむしろ、本を読むことが仕事になるプロフェッショナル研究者よりも「好きな本を読む」ようなヒマがあるとはかぎらない。まさか、「アマチュア研究者=ヒマ」と考えておられるとは。よもや、「ヒマなアマチュア研究者=調査や本格的研究はせず他人の書いた好きな本を読む者」と考えておられるなどとは…。

結論:素人をなめてはいけない。

_ [note] カレー事件

我ながら粘着してますが継続。

たしかに引用箇所はそのまま明記してある。「予算を消化しなければならないから調査する」というのが実情だと。「事情が許さない」と書いてある。上記tarohコメントでは「問題は私自身の忙しさ」のため既存データの分析が十分に出来ていないことと言いながら、単年度予算の弊害で「先延ばしができない」という意味に「過ぎない」という。「事情」とは忙しさのことか、単年度予算のことか。

いずれにせよ「予算を消化しなければならないから調査する」というのが「実情」という言葉をそのまま引用することがミスリードだとは思えない。それ自体はすなおな発言だったのだろう。ただし、たしかに元の書き込みの主題を無視した引用ではあった。

tarohのこの日の主題は「権力者の憂鬱あるいはただの愚痴」。愕然、さらに根は深い。「ココロザシも野心もそれほどなく」→「善良な人間」と自称するのもどうかと思うが、それどころか、善良な人間が権力を背負うのは「重荷」だと言うのだ。困った。善良な人間が権力の行使から逃げるようでは、代議制民主主義の絶望を感じる。善良だという自負があるのであれば、責任と覚悟をもって権力を行使していただきたい。しかも「善良」ではあれど「志がない」と自称しておられる。志のまちがった人が権力を持つのも困り者だが、志のない人に権力を委ねるのも困ったものだ。だいたいこの方は研究者であり教育者である…ということは、志なく研究して、志のない教育をしているということではないか。オソロシイ。志が低いどころか、ないと宣言するか。「忙しい」から志がなくなるのか、はじめから志がないから忙しくなるのか。

おどろいたことに、おそらくは先の伐られて候コメントへの回答とも読める投稿をみるに、「プロ社会学者の覚悟」はあるらしい。志はなくとも「覚悟」は持ちうるようだ。

「あるテーマに関する文献をしらみつぶしに読みつくすことの重要性」→「いったんカレーを食うと決めたら、一生食い続けなきゃダメだよね」

かっこよく聴こえるが、また文献網羅の意義を否定するものではないが、このような喩えは体育会系精神論と紙一重。とことんひとつのことに打ち込めとか、うさぎとび百回!と同程度のメッセージではないか。ある意味「プロ研究者」というのがいかに不健康かということ。若い方にこういうことを言うのは、伝わり方次第では犯罪的。自分自身音楽や数学を続けていたら今頃既に死んでいただろうと思う。この精神論者は、自分自身「ふらふらとテーマをかえる傾向がある」から「格言には違反」していると認めている。のにもかかわらず「そのスピリットは今でも私の中で生きている」などと宣う。

まったくいいかげんなものだ。そのふらふら精神論者が「今の時代、プロの社会学者としてやっていくため」の条件をおしえてくれている。なかなか教育的な志。

「それなりの知識と覚悟がいる」
それはそうだろう。
「趣味で好きな本を読んで言いたいことを言うだけではやっていけない」
好きな本を読んで言いたいことを言う時間がある「のも」健全なことだ。だいたいそんなこと「だけ」して生きるひとはいない。
「他人から評価されなければ、論文も掲載されないし、職を得ることも難しい」
たとえこれが他者評価を気にする自意識過剰の表明ではないと仮定しても、論文掲載や職を得るのに有益な「他人から」の「評価」の場合にはその「他人」が誰か?ということの方が問題であろう。それが学会や学閥の権力者であるか、幅広い読者の支持であるか、評価主体をどう想定するかにより振る舞いも大幅にかわるはずだ。そういった感覚がなければマーケティング批判のマも出来るまい。
「他人に評価させる」ための実力と戦略が必要だろう
これもたぶん事実。
「ろくに学会発表もせず生産性の低い研究テーマに固執し、わが身の不幸を嘆くだけでは未来は開けまい」
knot and/or ソシオンへの当てつけ?こどもぽいなあ、などとわしに言われるのもアレやで。ソシオンもどうかとおもうけどな。ここでひとつはっきりしたのは、この方にとって評価する他人というのは「学会」のことのようだ。自分自身が査読したり権力行使を憂鬱しているその学会。おそるべき自己言及。そのための手法が、たとえば
「自分の論文を査読するであろう人を予想して、その人が納得するような議論を作る」
ことだそうだ。…おそるべき自己言及その2。憂鬱な権力者:tarohの「ために」書け、ということか。

なんと世間の狭い方なのだろう。きっとこの方にとって社会というのは学会がすべてなの太郎。

それにしてもカレーは犯罪的。学生さんが「摂食障害というカレーが少し食べずらい今日この頃」と書けば、当事者が「私にとっては、「ひきこもり」が、カレーにあたるだろうか」と逡巡する。権力者が(いかに本人が憂鬱であろうとも)「カレーを食い続けろ」と言うことで、当事者に「そこに留まれ」と命令する構図が完遂されたかのようだ。だいたい、なんでカレーやねん。ひじきなと水菜のハリハリなと筋コンの土手焼きなと喰いなはれ、身体こわすど。

なんにせよ志なく覚悟だけあるというのは、奇妙な体育会系。さすが阪大人科社会学テニスサークル系(事実誤認?)。…かと思いきや、過去ログをみると「本来あるべき社会学」とか「すべての人に開かれており、よりよい知識を目指すものでなければならない」とか言いよる。どうやら「志がない」こともないらしい。だがその直後「自慰的社会学者の持つ複雑かつ屈折したコンプレックスについては、一度ゆっくり論じてみたいが、とにかく自慰的社会学は、学問とはいえない」と言う。かすかな志がすぐに他者非難へと堕ちる。「とにかく」というあたりの端折り方がとても乱暴。それでも「一度ゆっくり論じてみたい」などというのをみると、本当にヒマにあこがれているようで涙さえ誘われる。

そもそも、「自慰」という言葉により他人を貶めたつもりのようだ。この性差別主義者。「自慰」に罪悪感をもたせようとしているかのような発言をする人間は、どうも本人が「自慰」に罪悪感をもっているようで、「ほんものの性交」よりも「自慰」が劣る、あるいは「自慰」を「ほんものの性交」の代替手段に過ぎないと考えているらしい。この類いのほんもの主義がレイピストを育むのではないのか。(たとえば生殖技術の展開などにより)人間の「性交」がなくなっても文化としての「自慰」は残るだろうと主張したみうらじゅん『正しい保健体育』でも読め。森岡『感じない男』で気分がわるくなった方も是非お口直しに。

「自慰的社会学者の持つ複雑かつ屈折したコンプレックス」というような間違った問題設定よりも、「志があろうとなかろうと覚悟だけはあるつもりの自称プロ社会学者の、単細胞かつ乱暴な優越コンプレックスとその犠牲者」の方が、よほど興味深くかつ社会的にも深刻な問題のようだ。

_ これを期に

あーね。を投げ出そうかと…

本日のツッコミ(全3件) [ツッコミを入れる]
_ きし (2006-09-25 09:51)

投げ出さんといてほしい。もういじめないから。

_ よどがわ (2006-09-25 13:31)

あんたはエライ!

_ あー (2006-10-20 00:59)

依頼に応じてiDESさんによるツッコミを消しました。


*ツッコミたい方は頭からどぞー