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2006-09-26

_ [precarity] 我々欠損値

気のふれたついでに今更言うまでもないことを書くと、富健あたまわるい。昨日の発端のほったんはそもそも「社会階層と社会移動」調査(SSM調査)の問題点に関する指摘だった。この調査に関する運営上のあるいはテクニカルな問題点については書かないが、ここでは本人も調査代表をしたことのある富永によるこの調査結果の使い方をみたい。「社会と社会学における日本とフランス--日本から見たブルデュー社会学--」(『思想』No.872, 1997年2月, 岩波書店)に次のような記述がある:

 この調査は日本社会に階層的地位の差別がある、という事実を明らかにすることを目的としたというよりは、そのような差別はあるけれどもそれは平準化しつつある、ということを明らかにしてきたのであった。

いきなり調査の目的と分析結果とを混乱させる文章だが、ともかく富永はブルデューの再生産論を否定したいらしい。

 高度経済成長期(一九五五〜七三)以後に急速に表面化した実利主義的な思考と、悪しき商業主義の教育への浸透としての『予備校』における『偏差値教育』の普及

こうした要因によって、大正期に制度化されたエリート教育システムの「残滓が徹底的に破壊された」というのだ。

 旧制高等学校の解体が大正教養主義をしだいに崩壊させ、そのことが戦前に存在していた日本のエリート主義的文化の消滅を導いた事実は、重要である。社会階層におけるブルデューの意味での「文化資本」は、かくして日本にはなくなってしまった。

富永のあたまのなかでは、文化資本というのはなくなるものらしい。むろん、大正教養主義をフランス文化貴族の「正統的文化」と類比して、それがなくなったと断言できる可能性はある。だが、文化資本の内実がそれだけなのではあるまい。むしろ日本では、実利主義や偏差値教育と相性の良い文化資本に変質しただけの話ではないか。英語(http://cruel.org/other/rumors.html#item2006081702)とかコーポラティブハウス(http://www.fusosha.co.jp/spapage/blog/2006/04/post_18.html)とか。あ、こぴぺしてね

 文化的エリートがなくなったことは、日本の社会階層が平準化に向かったということであり、階層間の格差は縮小して、日本は階層差の少ない均質化社会になりつつある。つぎにこのことを、一九五五年いらい一〇年ごとのSSM調査データの解析をつうじて立証してみよう。

_ 文化的エリート(おそらくは大正教養主義的エリート)の消滅が即社会階層の平準化を意味するものらしい。なぜ階級と言わないのか、という下世話な質問はあきらめて次に進む。富永は、1985年まで四回分のSSM調査から、「職業」に「従業上の地位」と「企業規模」を加えた三重クロスによって社会階層を、専門職業者/経営者/大企業ホワイトカラー/中小企業ホワイトカラー/大企業ブルーカラー/中小企業ブルーカラー/都市自営業者/農民の八つに区分した。これはSSM調査の職業大分類に基づき、富永によって操作的に定義されている。この上で、1955年から85年まで四回の調査結果から傾向をみて、専門職業者や中小企業ホワイトカラーの増加、大企業ブルーカラーや農民の大幅な減少を指摘する。

だが、ここで注目すべきは、母集団が2000人程度であるのにもかかわらず欠損値(Missing)が次第に増加して1985年には353人に上る点だ。上記区分は、既になんらかの「定職」を持つ者に限られているのだ。不安定労働者の大部分が捨象されているのではないか。さらに富永は、上記八区分の平均年齢、平均教育年数、平均年収、階級帰属意識における「中の上」への帰属率、などから八階層のプロフィールを表示する。この表から「日本社会は平等度の比較的高い社会であるといっても、これらの八階層のあいだには、地位諸変数および意識諸変数による差が存在している」との指摘している。そう、サービス経済化により事務職や管理職が増大したことは言うまでもなく、都市の自営業や専門職の場合にも、その生活基盤はバラバラなのだ。我々欠損値としては、こうした結果を(調査目的だったのかもわからんが)「社会階層の平準化」「階層間の格差の縮小」「階層差の少ない均質化社会」などを示すものと読むのではなく、サービス経済化による不安定労働の増大とそれにともなう従来の統計カテゴリ(職業分類)の不適合を示すものとして再考を求めたい。

官庁統計に用いられる日本標準職業分類は、こうした変動に対応すべく改訂が重ねられているが、不安定労働の実体を把握することは今も簡単ではない。そうした困難をものともせずに欠損値を排除した富永は、再び階層プロフィールを無視した総平均から全体としての傾向を次のように総括した。

 日本の経済が高度成長し、日本人の生活が豊かになっていくにつれて、日本社会が全体として、教育年数が伸び、所得が急上昇し(これは名目所得であるが)、「中の上」帰属率が急上昇し、自民党支持層もまた顕著に上がってきたことがわかる。

1955年1965年1975年1985年1995年
労働者階級74.2%65.8%71.3%68.1%64.0%
中産階級23.5%30.9%23.5%26.8%33.2%
資本家階級1.5%3.3%5.3%5.0%2.8%
ここでも、所得と物価上昇との比較もなされておらず、「中の上」帰属率は主観的意識の問題であり、なおかつ「中の上」帰属意識を自認しているのは1985年においても25%に過ぎない。これは、SSM調査において一貫して設問されてきた階級帰属意識を問う五段階調査の結果であるが、とくに60年代前後の高度経済成長期に、生活における期待ないし意識上の満足から「下の上」「中の下」から「中の上」へと移行したとしても驚くに当たらない。他方、SSM調査では、労働者/中産/資本家の三階級帰属意識も同時に設問してきたという事実に、昨年ふと気付いた。富永は当然のことながら不思議なことに、これを無視している。この三階級帰属意識の時系列比率は右表の通りである。

_ こうした階級への帰属意識には、労働者階級や資本家階級といった言葉の用法にも依存するだろうから、それぞれの年代における文化的あるいはイデオロギー的背景による影響も無視できない。それにしても、「中の上」意識が一貫して増加してきたと言われる割には、中産階級の増減にもゆらぎがみられる。その一方で、この期間を通じて産業構造が激変したのにもかかわらず、全体として見れば大まかな構成比はほとんど変わらない。このことの方が、むしろ驚くべきことなのではないか。

富永は、ブルデューがフランス社会の文化的「ディスタンクシオン(分別)」を「支配階級」「プチブル」「庶民階級(または労働者層)」に三分して論じたとして、次のように批判していた。

じつはこれは驚くほど古典的な、十九世紀ヨーロッパ的な区分である。その後の近代産業社会における社会階層は、一般的にいって、階層構造の多元化と階層的地位の非一貫化が進行し、「階級」という実体は明確なものではなくなって、ブルデューのような古典的な単純区分はほとんどできなくなっているのである。

だが、少なくとも人々の意識の上では、本人が調査代表を務めたことのあるSSM調査の結果においても、資本家階級/中産階級/労働者階級の三区分は明確に存在しているのである。論ずるべきは、階級の消滅などではなく、現に存在する貧困と階級の再カテゴリー化の方だ。社会学者を名乗る者は、己自身の類型化によって捨象したものがなんであったかを反省せねばならない。

肥後藩士(西南戦争熊本隊隊長)池邊吉十郎の息子、明治時代に朝日新聞主筆を勤め、夏目漱石らを呼び朝日を一流新聞に育上げたジャーナリスト池邊吉太郎(三山)の娘、自由学園(羽仁もと子創設)一期生として卒業後に童話を書いた池邊郁子を母に、陸軍少佐富永木の息子、東京帝国大学文学部哲学科を卒業して内務省で嘱託を勤めた富永理を父にもつ当の富永健一は、そのような家系を持つ自身の存在こそが、まさしく、ブルデューの言う「文化資本による再生産」の結果に他ならないことに無自覚だ。単に無自覚なのはあほで済まされるが、影響力を持つ学者となると厄介。既に年寄りで引退した方が、フリーターのネガ転や格差社会の流行よりも前に書いたものだとはいえ、我々欠損値といたしましては…

本日のツッコミ(全3件) [ツッコミを入れる]
_ あー (2006-09-28 15:10)

不当逮捕抗議 http://japan.indymedia.org/newswire/display/2972/

_ よどがわ (2006-09-30 11:08)

トミケンは、えーとこの子やから、今の地位は自分の実力でかちとったと言いたい。ブルデューは、労働者階級出身で、大学行って疎外感を抱いた経験があるから、ああいう構図を描いて見せた。ケンキュウする人の好みで解釈って決まるみたいですなぁ。きっかわさんの新作(ブルデューは今の日本にはあてはまらんというような内容のご本)の感想読んでみたいなぁ、なんて言ってみたりして。

_ あー (2006-10-01 01:05)

「ええとこのこ」がちんけな自意識ふりまわして学問ないがしろにしてまうあたりが、それこそ「文化資本」の劣化かもしれん。でも、ほんまのええとこのこは余程のアホでもなければ家系をみせびらかしたりはせん。お下品ですこと。


*ツッコミたい方は頭からどぞー