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2007-05-11_ [fem] 中年男子はなぜ「スピリチュアル」の片棒を担ぐのかかつて福祉国家を論じていた広井良典(1961年生)は、「若者はなぜ今、スピリチュアルな世界に向かうのか」その背景には「死生観の空洞化」状況がある。と、自問自答するようにして自身の新書を宣伝する。だが、問題は若者などではなく、詐欺的商売の温床をもたらすに違いない「スピリチュアル」ブームを批判できない中年男子の学者諸氏の方ではないか。 「感じない男」森岡正博(1958年生)も、伊田広行(1958年生)の『スピ・シン論』という「マイノリティをダシにしたマジョリティのための自己啓発セミナー」みたいなものを「人間のこころの奥深い面」「他人とつながっていく面を大切に」「凛々しい個人として」「真に人々のスピリットの奥底まで響き合う新しいことば」などと、醜悪な修辞で宣伝する。そもそも伊田は、あちこちで世帯単位の社会保障制度を革命する話を期待させておきながら、必ず「スピリチュアル」とか言い出すので不快きわまりない。『続・はじめて学ぶ ジェンダー論』も<たましい>連発でフェミニストから「女性読者が手に取る自分探し本の一種かと思ったくらいだ」と評されるほどだ(その2)。あろうことか伊田は、批判者の「冷笑主義」が「恥」だ、それがわからないのは「自分の<たましい>に照らし合わせた生き方ができていないからだ」などと書きくさる。おぞましい。(参照:『バックラッシュ!』発売記念キャンペーン) わし自身の根性が十分に歪んでいるせいだろうか、小林正弥(1963年生)の「スピリチュアリティと平和」、樫尾直樹(1963年生)弓山達也(1963年生)伊藤雅之(1964年生)らの『スピリチュアリティを生きる』『スピリチュアリティの社会学』といった学問(?)についても、(なおさら)意図そのものが理解できない。樫尾が所長をしていたというスピリチュアルデザイン研究所のスピナビにも、率直に、近寄りたくない。磯村健太郎(1960年生)「<スピリチュアル>はなぜ流行るのか」も危険性を言いながら、結局は個々人のリテラシーの問題とする。なにより、ここまであげた誰もが江原啓之(1964年生)を否定しないのである。とくにこのやりかたは酷い。批判をかわす江原本人とおなじあなのむじな。ほんで、なんでこいつらみな60年前後生まれの中年男子なのか? _ 上岡龍太郎はえらかったなあ… *ツッコミたい方は頭からどぞー |
この日の日記単独表示にすると、左の広告欄の品物が批判対象だらけになる。